「なんなのあんたは!?
注意するなら普通に注意すればいいじゃない!?
なんでそんな同じことをずっと言っていられるわけ!?
頭おかしいんじゃないの!?」
みっともなく声は震えていた。カホの唇が止まる。
「私に構う暇があるなら、あの人の面倒を見ればいいでしょ!?」
言葉は吐き出すほど不安に変わって、私にのしかかっていく。
必死でカホをにらむ。
私の叫びなど聞こえていないかのようだった。
カホの笑顔は微塵も崩れることはなかった。
そして。
「使わないコンセントはぬいて。そう言ったよね?」
カホは言った。さっきと寸分変わらないトーンと微笑みで。
/ つ⊂ \
声にならない声が喉から漏れ出た。
私はリビングを飛び出して自分の部屋へと逃げた。
扉を勢いよく閉めて、鍵をかけた。
布団へと潜りこんで耳を塞ぐ。
「お母さん……!」
私は祈るようにそうつぶやいた。
扉をノックする音が、耳を塞いでいるのにも関わらず聞こえた。
『使わないコンセントは抜いて。そう言ったよね?』
あの女の声が扉越しに私を追い詰める。
目をきつく閉じる。
なのにまぶたの裏では鮮明に、カホが微笑んでいる。
『使わないコンセントは抜いて。そう言ったよね?』
「……はい。ごめんなさい」
私は声をしぼり出した。
扉のむこうでカホが満足そうに笑った気がした。
これだけおかしかったら、パパンも『うわ、メンヘルやったことやで』って気付いて分かれるんじゃね?
『ユイちゃんは本当はできる子だもんね』カホは言う。
『『お母さん』がどうこう言わなくても、一人でなんでもできるもんね』
はい、と私は反射的に頷く。
『今度は同じことを『お母さん』から注意されちゃダメだよ』
カホが扉からはなれていくのがわかる。
安堵のため息がこぼれた。
それから二ヶ月が経って、カホと父は入籍した。
式はあげなかった。
私は家のことについて考えるのをやめた。
そして。
カホの異常は父にまでおよぶことになる。
建設的なことを言うな!
二人が結婚してから一ヶ月。
私はカホの異常性が、父にまでおよんでいたことを知る。
このころの私はカホの言うことを、素直に聞いていた。
そうすることでやりすごしていた。
この日は仕事がやすみで夜遅くに帰宅した。
『なんだカホ。俺がなにかしたのか?』
ブーツを脱ごうとしたときだった。
父の声がリビングの扉越しに聞こえてきて、私は手を止めた。
『なにを怒っているの?』
カホの声は父のそれとは対照的に淡々としていた。
『お前こそなんなんだ? 俺がなにかしたのか?』
『言ってる意味がわからないよ。
お風呂入ったら、って言っただけじゃない』
そこでふたりの会話がとまる。
父がリビングから出てきた。
父は私に気づいたが、なにも言わずに二階へあがっていった。
「おかえり、ユイちゃん」
カホがリビングから出てくる。
「なにかあの人とあったの?」
「べつになにもないよ?」
「あの人が声を荒らげてるのなんて、見たことないんだけど」
きっと疲れてるんだよ。
それだけ言うとカホはリビングに引っこんだ。
カホの異常さはいやでも目についた。
その日はめずらしく『家族三人』での食事だった。
だけど、会話らしい会話はほとんどない。
カホが一方的にしゃべっているだけ。
以前までは父も話していた。
だけど最近は、声を聞くことさえなかった。
父が食事を終えて、リビングから出ようとしたときだった。
「お風呂に入るでしょ?」
静かな居間に、カホの声がひびく。
父は立ち止まりこそしたが、ふりかえりはしなかった。
その背中にカホはまた同じ言葉をかける。
「お風呂に入るでしょ?」
仕事で忙しければそんな簡単にはいかんぞ
資金的な問題もある
「……あとにする。先にキミが入れ」
「お風呂に入るでしょ?」
背筋が薄ら寒くなるのを感じた。
この女はついに父にまで、自身のもつ狂気を向けたのだ。
「俺はやることがあるんだ。
あとから入るからお前とユイが先に入れ」
父の声は明らかに苛立っている。
「お風呂に入るでしょ?」 何度目かになるカホのセリフ。
カホの顔には、あの微笑みが張りついていた。
「お風呂に入るでしょ?」
父がカホを振り返る。
「……わかった。入るよ」
「うん。一番風呂で寒いかもしれないけど我慢してね。
あ、お父さんが出たら次はユイちゃんが入ってね」
私はだまってうなずいて料理を口にする。
口にふくんだカホの料理は冷めきっていた。
カホのせいで家の中の空気が、変化していくのを私は感じとっていた。
重くのしかかるような空気が、家全体を覆っていく感覚には覚えがある。
この家が私にとって、心安らぐ場所だったのはいつのころだったのだろう。
ここのところ、まどろみの中で『母』をさがす夢を見る。
この日もずっと『母』をさがしていた。
だけどなにか大きな音がして、唐突に現実に引きずり戻された。
からだを起こして、机のうえの目覚まし時計を確認する。
時刻は夜中の二時だった。
音はリビングから聞こえた。
私がリビングへと駆けつけると、父とカホがいた。
カホは床に座りこんで頬をおさえていた。
「な、なにがあったの?」と私の問にはふたりとも答えなかった。
「お前が悪いんだ……」
父の顔は怒りに強張っていたけど、同時に紙のように白かった。
やせ細って骨ばった父の拳には赤い血がこびりついている。
呆然とする私を父が横切ってリビングから出ていく。
「どこへ行くの!?」
私は父を問いただすために追おうとして、結局やめる。
カホの様子を見ることを優先した。
「大丈夫?」
唇の端が切れたのか、出血していた。
父がカホに手をあげたことに、私はなぜかショックを受けていた。
「言いすぎちゃったのかな。怒らせちゃったみたい」
カホがおかしそうに笑った。
笑うと唇が痛むのか、その微笑はいつもとちがっていた。
「またなにか言ったの?」
「少し注意しただけだよ、わたしは」
「それだけで手をあげたって言うの、あの人は?」
「そういう人でしょ、あの人は。
あなただってそんなことぐらい、わかってるくせに」
私は肩をかして、ソファにカホを横たわらせた。
「前にも聞いたけどさ。なんであんな人と結婚したの?」
カホが答えようとしないので、私はそのまま続ける。
「あの人はクズだよ。お母さんだってあの人のせいで……」
「そうだね」
カホは自分のお腹に手をおいた。
「あの人は奥さんがいても、平気で不倫とかしちゃう人だからね」
母の生前、父が不倫をしていたことを私は知っていた。
そして、その不倫相手の一人が目の前の女なのだ。
「わかってたんでしょ? 」私は言った。
「アイツが人間としてどうしようもないクズで、最低なヤツだって」
「ええ、もちろん」 とまたカホは笑う。
「じゃあ、どうして!?」 と私は思わず声をあらげた。
「幸せになるためよ」
カホ自分の腹部へと視線を落とし、
そのまま自身の手を腹部へともっていく。
「どんなことをしてでも、なにをしてでも」カホの声が冷たくひびく。
「わたしはわたしの幸せを手に入れるの」
「どんなことをしても……?」
「ええ、どんなことをしても」
幸せになる。
カホが自分に言い聞かせるように、もう一度言う。
その言葉はしばらく私の鼓膜にこびりついて、はなれなかった。