2012年に入ってすぐくらいから奇妙なことが起きだした。
すれ違った人の顔が一瞬母親の顔に見える。
あれ?っと思った瞬間には、別人だと気がつく。
たとえば年齢や背格好が似てる人ならまだしも、年齢も性別も背格好もバラバラの人なのに、ほんの一瞬だけ顔が母親の顔に見える。
そんなことがほぼ毎日のように1日に4~5回あった。
さすがに何かあったんじゃないかと思って何度か電話をしたが、母親の様子はいつもと変わりがない。元気そう。
気のせいで済ましていた。
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3月、母親から電話があり、春くらいに従兄弟たちやみんなで集まってバーベキューをするという。
あんた1人だけ行かないわけにいかないから、絶対に来いと。
そういう集まりにあまり行こうとしない俺の性格を見越して、絶対に参加することを強く約束させられた。
そして4月に入ってからバーベキューの日が5月6日に決まったという知らせがあった。
4月24日の朝、妹から母親が入院したとのメールがあった。
このときは「念のために検査」という目的で、午後には本人からも電話があり、「たぶんお母さんはバーベキューには行けないけど、あんたは絶対に行きなさい」とのことだった。
5月6日、バーベキュー。妹は母親の看病のため参加しなかった。
20年以上ぶりに会う従兄弟たちはもう充分にオッサンオバサンになっていて、俺以外には1人を除いてはみんな結婚している。
4~5歳の子供がいるやつもいる。
それを羨ましそうに見ている父親を見ていると胸が痛んだ。
従兄弟たちにも「にいちゃん、早く結婚しておばちゃん安心させたって」と散々言われ、少々鬱陶しく感じながらも、小さな子供たちを羨ましそうに見ていた父親や入院中の母親のことを思うと、返す言葉もなかった。
バーベキューは思ったよりも楽しく、叔母や従兄弟や血のつながったやつらと会うのも悪くないと思い、お互い連絡先を交換した。
翌日妹からメールがあった。以下メールのコピー
▼
さっき、お腹にチューブ通して腹水抜いた
お父さんには、今晩話すけど
お母さん、肝硬変がだいぶ進んでて
見た目以上に危ない
多分これ以上の治療は、意味がないから
もう少し様子をみて退院するけど
在宅で往診してもらいながら、ゆっくり何もせずに過ごした方が良いらしい
その前に腹水が、まだまだたまるようなら
たまった水にも栄養があるから
血管に腹水を通す手術するかも…
癌みたいに命の期限はないけど
「家族はそれなりの心構えが必要」
ちょっと調子が良い時に、温泉に連れていってあげるとか
残りの時間を大切にしてあげて下さいって言われた
▲
このメールを読むまで腹水が溜まっていることも知らなかった。
てゆーか腹水ってなに?
検査のための入院じゃなかったの??
それなりの心構えってなに???
そもそも肝硬変ってなに??
実は20年ほど前から母親は「原発性胆汁性肝硬変」と診断されていた。
たしかにそうだった。思い出した。
当時俺は外で悪さばかりしてて、母親が病気になったと聞いても気にも留めなかった。
それから20年、毎月検査をしていたが、これまでは目に見えるような変化もなく元気だった。
それが今年の2月くらいから急激に悪くなったらしい。
目の前が真っ暗になった。
どうしよう?どうしよう?しか頭になかった。
つい昨日、そろそろ親孝行しないとなーなんて考えてたところだったのに。
いまさら後悔しても始まらない。
残りの時間とやらがいつまであるかは分からないけど、できるだけ親孝行しようと心に決めた。
そして、できる限り病院へお見舞いに行くようにした。
1週間後の5月14日の夜、妹から電話があった。
駅からだろうか、電話の向こうでホームのアナウンスと雑踏が聞こえた。
妹は泣いていた。
その泣き声を聞いた瞬間、血の気が引いた。
母親の余命は3ヶ月だった。
今年に入ってから頻繁に見てた母親の幻覚の理由はこれだったか。
虫の知らせってやつだったか。
妹が病院で告げられたらしい。
今は普通に話せるし、トイレも1人で行けるけど、近いうちにそれもできなくなり、腹水も黄疸も今以上に酷くなり、熱が出て、脳性肝症になれば意識が混濁しこん睡状態になり、そのまま死んでいくという。
電話を受けた俺は妙に落ち着いていて「そうか、わかった。明日病院に行く」とだけ伝えた。
落ち着いて話しができたのは、電話の向こうで妹が泣いていたからだと思う。
妹はこの数週間、1人で母親の面倒を見ていた。
余命宣告を受けても誰にも言うつもりはなかったらしい。そのことを看護師に言うと「本人やお父さんにはともかく、お兄さんには絶対に伝えないとダメ!」と強く言われたらしい。
ありがとう
俺ら兄妹はそのことを本人にはもちろん、父親にも言うつもりはなかった。
両親は2人そろって気が弱い。
絶対に言えない。
妹との電話を切ってからはあまり覚えていない。
何人かの友達に泣きながら電話したと思う。
0時過ぎになってふと我に返り、朝まですごい勢いで母親の病気の事を調べ始めた。
原因、治療、予後、家族にできること。できる限りのことを調べた。
翌日、病院へ行き主治医と話した。
長男でありながら、余命3ヶ月の母親の主治医と話すのはこれが初めてだった。
今年に入ってからの検査数値やCTスキャンの画像なんかを見せられ、現在の状態では3ヶ月後に亡くなる確率が50%。
でも中には1年くらいはもつ人もいると説明を受けた。
どっちにしろ1年もたないらしい。
昨晩から調べに調べて、心に決めていた1つの言葉を投げかげてみた。
「生体肝移植はできないですか?」
医者は少し黙ったあと
「・・・・できないことはないですけど、今のお母さんの体力で手術ができるかどうか・・・」
俺は見逃さなかった。
生体肝移植という言葉を出した瞬間に、医者の表情が少し、ほんの少しだけ緩んだ。
ホっとしたような顔をした。
引き下がってたまるか。
「素人考えで申し訳ないですけど、助かるにはそれしかそれしかないんですよね?もう遅いんですか?」
「いや、遅くはないです。・・・手術するなら今しかないでしょうね。でもあれは本当に大変ですよ。がんばれますか?」
もう医者は笑顔になっていた。
俺は心の中でガッツポーズをしてた。
生体肝移植は生きている健康な人(ドナー)の体から肝臓を約4割~7割切って取り出し、
悪くなった人の肝臓をすべて取ってからそこに健康な肝臓を移植する。
移植したほうも、されたほうもだいたい1年くらいで元の大きさと機能に回復する。
ドナーは、まず健康であること、そのほか患者から3親等(病院によって違う)までの人に限るとかそういう条件がある。
つまり家族のうち2人が大手術&長期入院することになる。
もちろん経済的にもかなり負担がかかる。
後から聞いたところ、母親がいよいよというときには医者のほうから生体肝移植の話を切り出すつもりだったらしいが、
手術の性質上あまり積極的に医者が勧められるものではなくて、中には手術をしたくてもドナーになれる人が身内にいないとか、
他の理由でしたくてもできない場合もあるので、手術ができなかった場合、残された家族が負い目とか精神的にダメージを受けるかららしい。
そして医者の中には、健康な人の腹を切り、内臓を取り出すこの手術を倫理的な理由で嫌う人もたくさんいるらしい。
「ドナーは私でいいですか?血液型違いますけど・・・」
「大丈夫です。今は血液型が違っても移植できます。じゃその方向で進めましょう。」
医者はさっきまで言葉を選びながらゆっくりと話していたのに、移植の意思を示したあたりから急に早口になり口数も多くなった。
医者は続けた。
「お母様には私から移植の件を話しますね。息子さんや娘さんが話すとたいていの場合は移植手術を断る人が多いんです。ドナーにも少なからず危険はありますから健康な自分の子供をそんな目に合わせられないって人が多いんです。」
俺は「いや、私が母に言います。ちゃんと説得します。」と言った。
母親には余命を隠している。
しかもこの時点で、翌日に母親は退院することが決まっていた。
本人には、家でしばらくゆっくりして様子を見ると伝えていた。
でも本当は余命を穏やかに家で過ごさせるため。
そんな母親に移植手術なんて大層なことを承諾させるのは難しくないですか?と医者は気遣ってくれた。
なぜか俺が言わないといけないような気がしてた。
前日の電話で妹が泣きじゃくってたのが頭から離れなかったのもあったし、今後は俺ができる限りのことは何が何でもやってやろうと思ってた。
翌日、母親は退院した。
本人は少し休めば元気になる程度にしか思っていないので、なにかと家事をしたがる。
気が気じゃなかった。
退院した夜、父親に話した。
気の小さい父親のこと。余命宣告だけなら話すつもりはなかったけど、移植手術をするとなるとまた話は違う。
ちゃんと話しておかないといけない。
お母さんはこのままだと3ヶ月の命だということ、助かるには俺か妹のどちらかがドナーになって生体肝移植をするしか方法がないこと。
黙って俺の話を聞いていた父親はあきらかに動揺していた。
「わかった。お前に任せる。」と言うのが精一杯のようだった。
話をして1時間くらい経ったとき、父親が俺の部屋に来た。
部屋に入るなり父親は俺に土下座をした。
「頼む!お母さんを助けてやってくれ!お父さんはなんもできへん!頼むから助けてやってくれ!お願いや!」
父親は見たことないくらいボロボロと泣いていた。
少し話が前後するけど、医者に移植手術をしてくれと頼んだ帰りに駅で妹に電話をした。
「お母さんな、生体肝移植するから」
「え?なにそれ?」
俺がドナーになって肝臓を母親に移植すると伝えた。そうすれば助かると。
「お兄ちゃん、お酒いっぱい飲むのに大丈夫なん?私のんじゃあかんの?」
「どっちがドナーに適してるんかは色々検査せな分からんやろうけどな。お前はドナーになってもええんか?」
「全然いいで。それでお母さん助かるんやろ?」
必ずしも助かるとはいえないけど、日本ではこれまで9000例以上行われてる手術で、そのうち手術後5年生存率が約80%あることを伝えた。
妹は本当に嬉しそうだった。
このまま続けてくれ
母親の退院したその翌日、介護ヘルパーさんや在宅医療の先生達が次から次に家に来た。
これらはもちろん「家でゆっくりと余生を過ごさせる」ため。
移植手術の話をする前から、入院先の病院が手配してくれていた。
母親は「そんなたいそうにしてもらわんでもええのに・・」と笑っていた。
在宅医療の医者を見送るとき、家を出たところで移植手術を計画していることを伝えた。
この医者には、入院先の病院から母親の病状や予後は引き継がれている。
先生は「うん、それしかないでしょうね。でも大変ですよ。頑張りましょうね」と言ってくれた。
すぐに母親の寝てる部屋へ行って移植手術のことを切り出した。
このときに俺が言った言葉は死ぬまで忘れない。
「お母さん、あのなぁ、今ごっつしんどいやろ?これからゆっくりして良くなったとしても、また次に悪くなったら大変やからな。今みたいに多少でも元気なうちに肝臓の移植手術受けたほうがええんちゃうか?」
「移植!?誰のを移植すんの?」
俺か妹のどちらかだというと、母親は一気に顔を曇らせた。
「大丈夫やで、いまどきの医学はすごいねんで。移植ゆうても盲腸の手術みたいなもんやわ。パッパーッと切ってどっちがドナーになっても一ヶ月くらいしたらピンピンしてるわ。」
俺は嘘をついた。数は多くないにしてもドナーの死亡例はある。死なないまでも重篤な後遺症を残すこともある。
母親はしばらく考えたあと「じゃ、あんたらにまかせるわ」と言った。
簡単に承諾したので拍子抜けした。
いや、裏を返せばそれだけ体がしんどかったんだと思う。
すぐに入院してた病院に連絡をして、母親が手術を承諾したことを主治医に伝えた。
1日でよく説得できましたねと言われた。
嘘をついたとは言えなかった。
1週間ほどして病院から連絡があった。
生体肝移植ができる病院はK、H、Sの3つあるけど、どこにしますか?
俺はなんとなく自宅から近いという理由で「S大でお願いします」と伝えた。
折り返し連絡があり、すぐに紹介状を送るので、それを持って5月22日にS病院に行ってくれと言われた。
これで助かると思って嬉しかった。
余命宣告された日から有休を使って仕事をずっと休んで、母親の世話をしたり、在宅介護や医者や役所の手続きなどで追われていた。
これまでのように妹にまかせっきりにするのはやめようと思った。余命宣告を1人で聞いて抱え込んで泣いていた妹に申し訳なくて仕方なかった。
5月22日
家族全員でS病院へ行った。
カウンセリングルームみたいなところへ通され、この1週間ほどの間にネットで散々顔を見た教授先生がまず簡単に話をしてくれて、主治医となる先生と移植コーディネーターさんを紹介してくれた。
主治医は30代半ばくらいのかわいらしい顔をした女性。
正直、最初は大丈夫かな?と思ったけど、手術の概要やスケジュールを説明してくれた主治医の様子を見て安心した。
ふにゃっとした話し方ながらも要点をきっちり押さえてて、こちらが知りたい情報をテキパキと説明してくれた。
生体肝移植の問題点や合併症の危険性を聞いた。
同時に移植手術が上手くいけば、ビックリするくらい元気になるとも聞いた。
そして最後に主治医から母親への生体肝移植への意思確認がされた。
「お母さん、これからかなりしんどいこともありますけど、頑張れますか?」
その問いに、朝から動いてしんどかったであろう母親は小さい声で搾り出すように
「今みたいにしんどいのはもういやです。元気になれるならなんでも頑張ります。なによりこの子達のためにも頑張ります。」
妹が泣き出した。
部屋には主治医、コーディネーターの他にも大学病院ならではの研修中の医学生たちが10人ほどいたんだけど、その学生たちもなぜか泣いていた。
それを見て俺までがもらい泣きした。
主治医が言う
「大丈夫、お母さんがその気持ちなら私たちも目いっぱい頑張ります。1年後には今日のことは思い出話になってますよ。一緒に頑張りましょう!」
この日までの役所まわり、介護関係の書類、そのほか今までやったことのないことを必死でやってた疲れと、この先どうなるのかって不安もあって、俺は精神的にかなり参っていた。
それがこの日の母親と主治医のやりとりを聞いてすごく元気になって勇気をもらった。
コーディネーターさんに今日はいったん帰ってもらって、あらためて入院や検査の日程をお知らせしますと言われた。
帰る間際に、今日なんとか母親の腹水だけでも抜いてもらえないか頼んだ。
どちらかといえばスリムな母親のお腹は腹水が溜まって膨れ上がり、動くのもしんどそうだったのでかわいそうで仕方なかった。
抜いてあげたいけれど、今後の手術のことを考えると、針を刺す処置は感染症の危険もあるのでできればしたくない。お母さんには悪いけどもう少しだけ辛抱してくれと
言われた。
3日くらいしてから、5月31日に入院が決まったとコーディネーターさんから連絡があった。
そのときに俺ら兄妹2人もドナー検査をするので家族全員で来てくれといわれた。
入院の日が決まり、ニュースやドラマでしか聞いたことのなかった「生体肝移植手術」というものが、現実にすぐそばまで来た。
もしかしたら自分がドナーになるかもしれない。
俺の覚悟は決まっていた。
手術が上手くいって母親が元気になるのなら、俺の寿命から10年、いや20年減らしてもかまわない。
これまでにかけた心配と迷惑を考えれば、それでも足りないくらいだ。
本気でそう思っていた。
夜は毎日これでもかというくらい肝移植手術について調べた。
調べてると気になることがあった。
「手術後、移植された肝臓が定着するまでは免疫抑制剤を大量に服用するので、退院後数ヶ月の間はペット(犬、猫、鳥)とは一緒に生活できない」
実家には猫が2匹いる。
母親にもよくなついてる。
どうしよう。。。。
俺は京都に1人で住んでいる。でもこんな状態じゃしばらくは実家から離れられないだろう。
このままだと京都の会社までの交通費もバカにならない。
もう京都を出て実家の近くにマンションを借りよう。
母親が退院したら、免疫抑制剤の量が減って実家に帰れるようになるまではそこに一緒に住もう。
それに今回のことを乗り切っても、今後なにがあるか分からない。
近くで住んでるほうが絶対に良い。
母親に相談した。
2つ返事で賛成してくれた。母親は嬉しそうだった。
自分の子供が近くに住んでくれるのはやっぱり嬉しいんだろう。
すぐに不動産屋へ行った。
条件はとにかく実家の近く。
一時的にとはいえ母親も住む。だから母親の生活環境が変わらないところ(たとえば通えるスーパーが一緒)を探した。
そしてマンション生活には無縁の田舎育ちの母親がモダンなマンションというのにずっと憧れているのも知っていた。
広くなくてもいいからとにかく綺麗でお洒落なところがいい。
2人で住むのがしんどい広さなら、その間は俺が実家に戻っててもいい。
時期や状況によって居住者が変わるかもしれない。
不動産屋には事情を全部話した。
すると話が終わったくらいで、担当してくれた不動産屋が涙ぐんだ。
びっくりした。
俺は契約上必要だと思ったので事務的に話したつもりだった。
こんなことってあるんだろうか。
不動産屋のお母様もつい先月移植手術を受けたという。
生体腎移植。
ドナーには兄がなったという。
幸い術後の状況は良いらしい。
そのときに、実家から離れて住んでいて、母親が大変なときに何もできない自分が悔しかったらしい。
彼からすればこうして母親のために色々動ける俺のことがうらやましいと思ったに違いない。
これも何かの縁だろうか。
そんなわけで事情をこれ以上ないくらい理解してくれて、本当に親身になって色々相談に乗ってくれた。
結果、実家から歩いて5分のところの綺麗でお洒落な部屋を借りた。
決して広くはない1LDKだけど、部屋の内装的にもきっと母親が気に入るような部屋だ。
一緒に下見に行った妹のお墨付き。
問題は引越しの日程だった。
余命宣告を受けた次の日から、京都には1度も戻っていない。もちろん引越しなんて思いもしなかったから準備もしていない。
今は1日たりとも、実家を離れたくはない。
引越しするなら5月31日に母親が入院してから。
そしてドナーとしての検査もいつ入るか分からないし、あまりダラダラしてると手術と重なってしまうかもしれない。
とにかく何もかもスムーズにすばやく引越しする必要があった。
同時に移植手術を受けるにあたっての役所への手続きも忙しくなっていた。
一時期はしんどくてつらくて不安だったけど、この頃の俺はとんでもなく気合が入って、なにもかもテキパキとこなした。
この時期の俺は判断力と行動力はすごかった。
なにもかも母親に健康を取り戻してもらうため。
自分で言うのもなんだけど、この先何十年経っても、誰に対しても、このときの俺は胸を張れる。
引越しの日程も決まり、5月31日入院の日を迎えた。
なぜか母親は、俺や妹や父親よりも後に、最後に家を出ようとしてた。
俺は玄関先でドアを開けたまま、早く行こうと促した。
母親は家の中を軽く見回して、フゥとため息をつき、猫2匹に「ちょっと行ってくるからね。いい子にしとかなあかんよ」と言って猫2匹の頭を指でちょんとつついた。
病院へ着き、入り口にある車椅子を借り母親を乗せた。
車椅子を押しながら自動ドアを抜けるときに言った。
「今度ここを通るときは、たぶんお母さん歩いて通れるで」
母親は嬉しそうに笑っていた。
窓口で入院手続きをして、病棟のナースステーションへ行き、病室へ連れて行ってもらう。
ほどなくして、4人くらいの医者がやってきた。
前回来たときに話をした教授先生でも、主治医の女性でもなかった。
一番前で挨拶をしてくれた先生は丁寧な感じだったが、その後ろにいた若い医者数人の態度がムカついた。
「あのねー手術はかなりキツいからねー、いや、本当にしんどいよー」
みたいな、タメ口で不安を煽るようなことばかり言う。
その医者の年齢はおそらく母親の半分くらいだ。
年齢差が関係なくなるほどに、医者は患者より偉いのか。
母親を見ると不安そうな、泣きそうな顔になっていた。
一番前にいた先生が空気を読んでフォローしてくれた。
その後、俺ら兄妹もドナー検査をして、母親にまた明日来るからと言って病院を後にした。
その夜、母親は1人の病室で便意を感じ、トイレに行こうとするも間に合わずベッドで粗相をしてしまったらしい。
肝障害の影響で腸がだいぶ弱ってきてるんだろう。
看護師さんは気にしないでいいと言ってくれたらしいけど、母親の性格を考えると可哀想で堪らなかった。
俺はすぐに引越しの準備に取り掛かった。引越しは6月7日。
病院へ行ったりする都合を考えると、引越しの準備は実質3日しかなかった。
ワンルームマンションとはいえ、なんせ10年も住んだところだ。
3日じゃなかなか難しい。
とにかく捨てようと決めた。
もうベッドもソファも冷蔵庫も洗濯機も服も衣装ケースごと、全部捨てて、とにかく身軽にしよう、そして家電は新しく買おう。
退院後の母親にとっても、俺が10年使ったお古の家電より新しいほうがいいだろう。
それになんとなく身の回りを綺麗にしたかった。運気も良い方に変わるんじゃないかとも。
このときは断捨離という言葉を知らなかったけど、このときに俺がやっていたのはまさに断捨離そのもので、なかなか良いものだと思った。