引越しのための掃除を慌ててしたせいで、喘息の発作が出だした。
ここしばらくは調子が良かったので忘れてた。薬もない。
話がそれるけど、俺が喘息になったのは昨年末くらいから。
今年に入ってから急激に悪くなり、生まれて初めて喘息の発作というものを経験した。
そのときは自分の体に何が起こってるのか分からなくて、とにかく落ち着こうとゼェゼェ言いながらタバコを吸いまくって、悶絶の苦しみを味わった。
京都のマンションの掃除が終わり、夜遅くに京都から西宮へ戻る電車で発作が始まり、実家近くの駅を降りた瞬間に救急車を呼んだ。
とりあえず病院で応急処置をしてもらって、落ち着いたときにそこの先生に、もしかしたらドナーになるかもしれないって話をしたら、
今の状態でドナーになんかなったらかなりの確率で死ぬと言われた。落ち着いた状態なら多少の喘息持ちでも大丈夫だけれど、こうやって1度でも発作が起きたら当分はドナーになんかなってはダメと言われた。
でも俺は、そんなこと言われても知ったこっちゃないってのが本音だった。
なんとか引越しも終わり、引越し先の部屋の写真をたくさん撮ってiPadに入れ、病院の母親に見せてあげた。
「ここには何を置くの?」とか「この奥はどうなってるの?」とか本当に嬉しそうにニコニコしながら色々聞いてきた。
そうしてると看護師さんがやってきて、「あ、お兄さん引越しは終わったんですか?わー綺麗な部屋ですねぇ」と言い、母親のほうを見て「綺麗なところでお母さん良かったねぇ。」と声をかけた。
どうやら、俺が実家近くにマンションを借りて、一時的とはいえ母親と住もうとしていることが、母親はものすごく嬉しかったらしく看護師さんにも話していたようだった。
ふと母親の枕元を見ると、俺が不動産屋でもらってきた引越し先の部屋の間取り図をコピーしたものが大事そうに置いてあった。
あとから看護師さんが教えてくれたが、母親は1人でいるときにしょっちゅうその間取り図を見ているらしい。よほど楽しみなんでしょうねと。
何度目のドナー検査のときだったか、それともカウンセリングのときだったか忘れた
けど、ドナーには俺と妹のどちらが適しているかを聞いた。
結果はどちらでも大丈夫。
ただし、医学的に言うなら母親と血液型が同じ妹がドナーになるほうが良いといわれた。
もし俺がドナーになるなら血液型不適合移植手術となり、その場合はこのS病院では手術ができないので、血液型不適合移植手術のできるK病院へ移ってもらうと言われた。
さらに血小板の入れ替えなどをするので手術前の準備が長引くとも。
そこまで言われると妹がドナーになるしかなかった。
幸い、妹は自分がドナーになることを嫌がるどころか、むしろ喜んでいたので俺はなんの文句もなく、妹がドナーになることを承諾した。
手術日が6月28日に決まった。
そしてもう一度手術の説明をした上で、母親とドナー(妹)の最終的な意思確認をするので22日に家族全員で病院に来てくれと言われた。
ところで、ほとんど父親のことを書いていないけど、今にして思えばこの時期は父親が一番大変だったかもしれない。
俺や妹は、なにかとすることが多かった。
俺は引越しや手術にあたっての役所関係の手続きやなんか、妹は当然ドナーとして体調を整えたり、何より術後3ヶ月は仕事を休まなければならなかったので、休職に備えた引継ぎ等で大変そうだった。
父親は何もなかった。
何もできる事がないから歯痒かっただろうし、つらかったと思う。
だからせめてこれくらいはと思ってたのか、ご飯を食べたあとの食器を自分で洗って片付けたり、掃除をしたり今までしたことのないことを、誰からも頼まれていないのにやったりしてた。
そして夜はほとんど眠れていないようだった。
そんな生活を一ヶ月以上続けていると、父親の耳が片方聞こえなくなった。
病院へ行っても原因不明で、おそらくストレスによるものだろうとのことだった。
本当ならもっと労わってあげたかったけど、この頃は俺も妹も母親のことで頭がいっぱいだった。
22日、母親本人も含めた家族4人、病院のカウンセリングルームで最初に聞いたよりももっと細かく、現実的な手術の手順を聞いた。
母親の悪くなった肝臓を全摘出して、妹の肝臓の約65%にあたる540gを移植する。
妹に残るのは元の35%の大きさの肝臓しかない。これは肝臓が自力で回復する大きさのギリギリに近い大きさらしいけど、妹の健康状態や年齢、体力からすればまず大丈夫だろうという医者の判断だった。
それよりも移植する肝臓が小さすぎるとグラフト不全が起こり、せっかく移植した肝臓が機能しなくなる。それは避けたいと。
あと手術後の注意事項、特に感染症にだけを気をつけてくれとのことだった。
免疫力を極端に下げている状態ではいつどこでどんな菌に感染するか分からない。
健康な状態なら栄養ドリンク1本飲めばどうってことないような菌でも、手術後しばらくはそれが命取りになることもある。
最後に本人と妹の意思確認が終わった後、医者が笑いながらこう言った。
「うん、最初に来たときから思ってましたけど、お母さんもご家族も多分頑張れますね。これまで何人も移植手術したし、何人もの家族に接してきたから分かるんです。
こういう言い方はなんですけどね。移植手術を受ける患者さんとして、お母さんのお人柄や治療を受ける心構えといい、それぞれ役割分担して精一杯サポートするご家族といい、病院からすれば理想ですよ。もう少しです!頑張りましょう!」
泣きそうになった。
麻酔も怖いし
その後、家族全員でICU(集中治療室)の見学に行った。
手術後は2人ともここに入る。
目を覚ましたときは、機械だらけの知らない場所で目を覚ますことになる。
人によってはそれで不安になりパニックを起こすんだという。
だから前もって見学をさせてくれた。
ICUの中は本当に機械だらけで、正直言って健康な人でもあそこで寝たら病気になるなと思った。
それから手術までの1週間はこれまでにもまして大変だったように思う。
とにかく用意するものがめちゃくちゃ多い。今思い出せるだけでも、お茶、水がそれぞれ1ケース。清浄綿、オムツ、パジャマなどなどなど。しかもそれぞれが大量。
さらに母親の身体障害者の申請をしてくれと言われた。
手術前は2級、手術が終われば今度は1級の申請をしてもらうと言われた。
なんだかんだと忙しく過ごし、手術前日に妹が入院した。入院したといっても妹は健康なわけで、前日はずっと母親のそばにいて話をしてたらしい。
母親はもうかなり弱っていた。
顔もお腹もパンパンに浮腫み、顔色は完全に土色で、自分の力だけでは上半身を起こすのがやっとの状態で、とても立てるような状態ではなく、ほんの1ヶ月前に1人でトイレに行ったり、お風呂に入ったりしていたのが信じられないほどだった。
入院当初は俺へのメールの文章もしっかりしていたが、この頃には誤字が多すぎて一回読んだだけでは意味が分からないメールになっていた。
喋るのはできるが、体中で搾り出すような声で聞いていてつらかった。
気がつけば余命3ヶ月と言われてから約2ヶ月が過ぎていた。
確かに、このままだとあと1ヶ月はもたなかっただろうなと思い、あのとき移植手術をお願いしてよかったとつくづく思った。
なによりも今は希望がある。
本人ももちろんそうだけど、家族全員どれだけしんどい思いをしても頑張ってこれた
のは、手術を乗り切ればまた元気になるという希望があったから。
とにかく「希望」というものに家族全員がしがみついていた2ヶ月だった。
6月28日
いよいよ手術の日がきた。
支援
いよいよ手術の日がきた。
ドナーの妹は朝8:30から。
母親は1時間遅い9:30から。
8時過ぎに病室へ行くと妹の姿はもうなかった。
ついさっき手術室へ向かったそうだ。
母親のところへ行った。
ベッドのそばには父親が座っていた。
母親と特に会話はしていない様子だった。
父親は何を話せばいいのか分からなかったんだろう。
少し涙ぐんでる父親をみてそう思った。
俺は母親に声をかけた。
「お母さん、やっとやな。長かったな。」
母親は話すのもしんどいのか、少し笑って頷いただけだった。
看護師さんが2人迎えにきた。
車椅子に乗せ手術室に向かう。途中から主治医も一緒に加わった。
エレベーターを待っているとき、母親の車椅子を押していた若い看護師さんが、母親の乱れた髪を整えるように、やさしく母親の頭をなでていた。
俺は心の中でありがとうとつぶやいた。
手術室に入るとき「お母さん、がんばりや!」と声をかけると、背中を向けたまま目一杯の笑顔で少しこちらを振り向き、手を挙げた。
俺と父親は家族控え室に入った。
これから何時間かかるだろう?
スムーズにいけば妹は夜の8時くらい。母親は日付が変わるギリギリくらいに終わる予定だった。
待っている間は何もすることがない。
父親とも話すこともない。
俺はFacebookを更新したり2chを眺めたりして時間をつぶした。父親は目を閉じてはいたが寝てはいない感じだった。
夕方4時頃に猫にご飯をあげるために父親が家に戻った。俺はなにかあればすぐに連絡するから、家で寝ておいでと言ったが5時過ぎには病院へ戻ってきた。
夜8時、それにしても誰も何も言いに来ない。
それは何の問題もなく手術がうまくいってる証拠ではあったが、俺ら親子はやはり気が気でなかった。
笑顔の主治医が控え室に来たのは夜の9時をまわってからだった。
2人とも手術はうまくいっている。
妹のほうは傷跡が残らないように形成外科の先生が縫合しているので少し時間がかかったけど、あと1時間もすればICUに移ると。
母親のほうも特に問題なく順調にいってるので、多分予定通り0時前後には手術が終わるとのことだった。
父親は泣いてお礼を言っていた。
俺だって泣きそうだった。
10時半頃、主治医とは違う別の先生が俺らを呼びにきた。
照明も落ち、暗くなったICUに入ると端っこの一角だけ明るくなっていて10人くらいの人だかりができている場所に目がいった。
その人だかりの中心に妹がいた。
もう意識は戻ってるので声かけてあげてくださいと言われ、妹のそばに来ると父親が先に「おーい」と声をかけた。すぐに妹が目を開けた。顔色は真っ白だった。
酸素マスクの向こうで小さい声で「・・・お母さんは・・?」と言った。
手術は無事に進んでいることを告げると、安心したようにまた目を閉じたけど、またすぐに目を開けさっきよりも小さい声で「ご飯・・・あげてきた?・・・」と言った。
家に残している2匹の猫のことだ。
ちゃんとご飯もあげてきたことを伝えると、また目を閉じた。
手術が無事に終わったのはこれ以上なく良いことだけど、俺は妹の血の気が完全に無くなった白い顔が心配だった。
手術後はこんなもんなんだろうけど、それでもやっぱり気になった。
あまり負担をかけてはいけないと思い、俺と父親は家族控え室に戻ることにした。
戻る途中にも父親は泣いていた。
「あいつは何も悪くないし、どこも悪くないのに親のせいでこんな目に合わせてしまって・・・・」
俺は親ではなくて兄だけど、父親の気持ちはよく分かった。
つらそうにしている妹を見ると、俺がドナーになればよかったと本気でそう思った。
控え室に戻って1時間ほどして、ちょうど日付が変わったくらいに主治医が呼びにきた。
案内されたのは母親のいるICUではなくて、面会室。
そこで少し待っていると手術を担当してくれた医師が大きなタッパーを持って入ってきた。
結論から言うと手術は無事に成功したと。まずそれを伝えてくれたのでホッとした。
医師がタッパーを開けると、そこには見たことの無い物体が入っていた。
64年間母親の体の中にあった肝臓。
でもそれは俺の知っている、いわゆるレバーと呼ばれるようなものではなかった。
赤みのあるツルっとした、ヌルっとしたような感じのものだと思っていたけど、まったく逆で母親の肝臓はゴツゴツした岩の塊のように見えた。
素人目に見ても、異常なことだと思った。
医師は手に取った肝臓を見ながら「これを見て分かるように、もう肝臓が完全に硬くなってしまって、1割も機能していない状態でした。お母さんは気力で今まで頑張ってきたんですね。」
硬くなった肝臓を実際に見て、あらためて母親が死に直面していたことを痛感した。
とにかく手術はうまくいった。
母親の肝臓がすべて取り出されたことで肝硬変は完治した。
ただ移植手術はこれからが本番と言ってもいいくらいで、今度は別の病気との闘いが始まる。
まず、新しく植えた妹の肝臓が母親の免疫力に負けずに定着してくれるかどうか。
これは免疫抑制剤を大量に使うことでクリアできる。
ただ免疫力がまったく無い状態になるので、次は感染症の危険と戦わないといけない。
この1日、次は1週間を乗り切ることが大事なので、決して気を緩めないでくださいと医師は続けた。
事前に移植手術について調べていた俺はそんなことは充分に理解していた。
しかし父親はそうではなかったらしく、決して気を緩めないでくださいという医師の言葉に体を固くさせたのが横にいて分かった。
ICUに母親の様子を見に行った。
麻酔で眠っているので会話はできないけど、顔は見れるらしい。
同じICUでも、妹のいたエリアとは違う完全に隔離された別室に連れて行かれた。
手を消毒し、体を全部覆うエプロン、マスク、手袋をつけて入った。
母親は本当に生きているのか不安になるくらい静かに眠っていた。
布団の脇からパッと見ただけで10数本の管が出て、それぞれが色々な機械や器具につながっていた。
反対側はすべて母親の体のどこかにつながっているんだろう。
足元に母親の名前の書いた透明のケースがあり、上に小さな機械がついていた。
そのケースから出ている管は、布団の裾から入り母親の体に向かっていた。
おしっこも機械で取るのか・・・
しみじみと大変な手術なんだと思った。
聞こえはしないだろうけど、母親によく頑張ったなと声をかけた。
今できることはそれが精一杯だった。
父親は母親の顔をじーっと覗き込み、「・・・大変やったな・・・」と声をかけていた。
また控え室にもどり、始発まで待ってから父親と家に帰った。
駅のそばのコンビニの前で父親と別れ、マンションに戻った。
心身ともに気絶しそうなくらいに疲れ果ててはいたけど、お風呂に入った。
風呂に漬かっているときに人生でおそらく最大の溜息が出た。
まだまだ危険は続くけど、とにかく一つの山を超えた。
この2ヶ月のことを振り返ると、そのときは安堵しかなかった。
本当に良かったと思った。
12時過ぎに起き、携帯の着信を確認したけれどどこからもかかってきていなかった。
もし何かあれば、病院からはまず俺の携帯に連絡が入るようにしていたので、少しホッとした。
叔母に連絡をした。
ほとんど叔母のことは書いていなかったけれど、叔母には本当によくしてもらった。
余命宣告されたときも、手術を決めたときも叔母だけには伝えていた。
母親の妹にあたるけど、本当に仲の良い姉妹で、母親は週に2回か3回は午前中を丸々つぶして叔母と電話で話していた。
よくあんなに話すことがあるなと何度も思ったことがある。
そして叔母も母親と同じ原発性胆汁性肝硬変と診断されている。
この病気は親子間での遺伝はないけれど、稀に兄弟間で遺伝することが分かっている。
叔母もそうだった。
今のところ症状は出ていないので健康そのものだけれど、何年後か何十年後には母親と同じことになる。
叔母は自分のこともあってか生体肝移植をすると助かるというのを俺が伝えたときは心から喜んでいた。
手術が無事に終わったことを伝えると、今朝の俺と同じくらい大きな溜息をついて「よかった・・・」と言った。
従兄弟のNにも連絡をした。
本当なら連絡を取るほどの仲ではなかったかもしれない。
でも5月のバーベキューで連絡先を交換してからは、頻繁に連絡をとって経過報告をしていた。
俺と一番年齢の近いNは、もしも妹の肝臓がうまく移植できなかったときは、自分の肝臓を移植するつもりで、手術をしていた昨日はいつでも病院に行けるように準備していたらしい。
「血液型が違うにいちゃんよりも、俺ががやったほうがええやろ?俺血液型おばちゃんと一緒やし。」
ありがたかった。
昨年結婚して、2週間前に子供が生まれたばかりの従兄弟が何のためらいもなく、そう思っていてくれたのは本当にありがたかった。
病院へは次の日に行った。
すでに妹は手術の翌日の夜にICUから高度治療室へ移されてた。
後日に聞いたが、実は妹の容態も手術直後はかなり危険だったらしい。
大量出血し、事前に用意してた自己貯血を使い果たしたような状態だったらしい。
妹は普通に会話ができた。
痛い?と聞くとまだ麻酔が効いてるからそうでもないと言っていた。でも麻酔が完全に切れる明日からは地獄の痛みだと看護師さんに言われたと笑っていた。
母親のところへ行った。
ICUに入るときに、麻酔からは覚めているので声をかけてあげてくださいと言われた。
母親は目を瞑っていたが俺の「お母さん」という言葉にすぐに目を開けた。
まっすぐに俺の顔を見る。
ただ様子がおかしい。
俺の顔をじっと見ているのに、俺だと分かっていない。
ただ目を開けてじっと見ているだけ。
「分かるか?手術終わったんやで。頑張ったな」
声をかけても、何の反応も無い。
ただ俺の顔を見ているだけ。
母親の目には何の感情もなかった。
生まれてから今まで、母親からこんな目で見られたことはない。
かなりショックだった。
これがICU症候群か・・・
手術について色々調べていて、移植手術のような大きな手術後に、夢と現実の区別がつかないような状態になるICU症候群のことは知っていた。
64才の母親が15時間に及ぶ手術をしたんだから、ICU症候群になるかもなぁって最初から思ってはいたが、実際に母親がそうなるとやはりショックだった。
まぁ時間が解決するだろうと深く考えないことにした。
「また来るからな。もうゆっくり寝とき」と言うと静かに目を閉じた。
言葉はちゃんと通じているみたいだ。
時間差で父親も様子を見に行ったが、やはり同じような状態だったらしい。
妹が早く動けるようになればいいのにと思った。
妹なら母親の正気を早く取り戻せるかもしれない。
翌々日にまたICUへ行った。
一目見て母親の様子が変わっていることに気がついた。
下唇が血だらけになってパンパンに腫れあがっていた。
どうも麻酔からしっかり覚めるにつれ、ICU症候群のせいなのかベッドから逃げ出そうと暴れるようになったらしい。
体の管を抜こうとするので、抜けないように工夫をしたところ今度は自分の唇を噛みだしたという。
多分、現実を理解できない母親は怖くて仕方ないんだろう。
起こしていると可愛そうなので、しばらくは寝かせておくと言われた。
俺は母親の精神状態のことよりも、下唇の傷が気になった。
感染症は大丈夫なんだろうか?
まぁ素人の俺が心配するようなことは医師はとっくに手を打っているだろう。
何も言わなかった。
数日にわたって俺と父親と叔母が交代に様子を見に行った。
とにかく一日も早くコチラに戻ってくれるようにと声をかけ続けた。
妹も車椅子に乗ってICUに顔を出せるくらいに回復した。
ある日、俺と妹がいつものように声をかけていると、母親が涙を流した。
まだ意識がハッキリ戻っていない状態なので、どういう涙なのかはわからないけど、俺と妹は直感で「怖くて泣いているんだろうな・・・」と思った。
同じ手術を受けた人のブログやらを読んでいると、一番つらかったのは手術後の2週間だったとみんな書いている。
今が正念場なんだろう。
がんばってくれとしか言えなかった。