青空は褒められたわけでもないのに
ちょっと嬉しそうな表情になります
「でも相手が仮にお前じゃなかったとしたら、
確かに、驚いて、様子見に入るかもしれない」
「なるほど……。あ、そうだ。くらえくもりぞらさん」
青空はそう言いつつ、僕の顔に水を掛けます
僕も無言で二倍の量を掛け返します
しばらくそれを繰り返した後、噴水を出て服を絞り、
水をぽたぽた滴らせながらベンチに行き、
並んで座って服が乾くのを待ちました
時刻を知らせる鐘が広場に鳴り響きます
服が乾くと、青空はくしゃみとあくびを交互にして、
「それじゃあ、また」と言って帰って行きました
すごい面白いなこれ!
俺も追いついた!
今世紀最大の良スレの予感。
がんばって完結させてくれよな!
ひょっとすると、僕はもう、二度と青空に
会うことはないのかもしれないな、と思います
向こうがなりふり構わずに来れば、
僕たちがちょっとやそっと抵抗したところで、
速いか遅いか程度の差にしかならないでしょう
どうせなら部屋を思いっきり汚しておこう、
そう僕は思います
片付ける人の苦労を少しでも増やすために
それから二週間が過ぎます
その日、喫茶店で本を読んでいると、
自分の名前が呼ばれたような気がしました
もちろん、”くもりぞら”ではない方の
顔を上げると、店員が僕の顔を覗き込んで、
「やっほー」と手を振っていました
同学部の先輩、顔を合わせれば
挨拶はする程度の仲の人です
しばらく、スクリプトに従ったような
様式に忠実な会話を僕らは交わしました
不自然でない程度の時間が経つと、
先輩に気付かれないよう、そっと店を出ます
この店にくるのはもうやめにしよう、と僕は決めます
結構お気に入りの場所だったのですが、
知人がいるとなると、どうしようもありません
次の店を探さなきゃな、と溜息をついたとき
ふいに僕は体をのっとられました
遅かったじゃないか、と僕は思います
どうくるのかと自身の体の様子を見ていると、
まっすぐどこかへ向かって歩きはじめます
これから味わうであろう痛みを想像しながら、
僕は操作に抵抗して、口を動かします
自分を殺そうとしている相手との
コミュニケーションを試みます
「二分でいいから、話を聞いてくれ」
しかし僕の体は構わず動きつづけます
「あんたにも関係のある話なんだよ」
舌は思い切り攣ったような痛みが走り
唇の端が切れて血が垂れてきます
「なあ、そもそも、どうして自殺させるべき対象が、
頭にぱっと浮かんでくるんだと思う?」
慎重に言葉を選びながら、僕は言います
「俺はこれまで、六人の標的を自殺させてきた。
たぶん、お前と同じようなやり方で。
だが七人目を殺すことが出来なかった」
「そうして今、お前に命を狙われてる。
以前自分が他人にしていたことを、
今度は他人に自分がされているわけだ」
「操られる側になって分かったことだが、
『人の体をのっとって操れる人がいる』
ということを前提として知らない限り、
自分が操作されている事実には、
なかなか気付けるものじゃないらしい。
「それくらい自然に感じられるんだ、
体をのっとられて動かされるってことは。
あるいは、起こっていることが不自然すぎて、
事実を受容できないのかもしれない」
「そこまではいい。しかし、ここから俺が言うのは、
証拠はないし、論理が飛躍しているし、
何より自分にとって都合がよすぎる考えだ」
「でもな、仮にだ。人の体をのっとる俺たちもまた、
実に自然に、体をのっとられているんだとしたら?
俺たちは自分で考えて人を殺しているように感じているが、
実際のところ、操られているだけだったとしたら?」
そこまで言って、僕は限界を悟ります
これ以上喋ることは出来なさそうです
足が止まる様子はありませんでした
辺りは薄暗くなってきていました
道路には、浴衣を着た小さな子供や
自転車を漕ぐ小学生の男の子たちや
ちょっとお洒落をした中学生のカップルなど
街の祭に向かう人がちらほら見られます
八歳と六歳くらいの兄妹が
互いに虫よけスプレーをかけあって
その匂いが僕のところに流れてきます
少し遠くから笛の音が聞こえてきます
焦げたソースの香りもしてきました
名前を呼ばれた気がしました
僕の目は動きませんでしたが
視界の隅にブルーのスカートが見えました
「あの後、すぐ仕事が終わったんだよ。
それで、歩いてたら、君の姿を見つけて」
その声で、僕は相手が誰だか知ります
「ねえ」と先輩は言います、
「さっきのって、やっぱり独り言だよね?」
僕は無言で先輩の顔を見つめます
先輩は僕の口元を見て、目を丸くして、
「血、出てる」と口を指差して言います
僕が何も言おうとしないのを
動揺の証と受け取ったらしい先輩は
なぜか「大丈夫だよ!」と励ましてきます
「私の友達にも、君みたいな子、いたよ。
でもそれはただの一時的な病気で、
別に特別気に病むことじゃないんだよ」
よく分かりませんが、ひとまず、
ある点において手間が省けました
僕は先輩の体をのっとり、言うことを聞かない
自分の体を地面に叩きつけます
柔道で言うところの大内刈を、
先輩の体を使って僕にかけたわけです
単純な脇固めを極め、僕の動きを奪います
そのまま先輩に喋ってもらうことにします
僕の体は先輩を振り払おうとしますが
その動きは僕自身が抵抗して軽減します
「あんただって、いつかは俺たちみたいに、
どうしても殺したくない相手に出会う。
そして次の瞬間にはあんたが命を狙われるんだ。
そういう繰り返しは、もうやめにしないか?」
そう言った後、続ける言葉を考えて、
しばらくその体勢のままでいると、
いつのまにか僕の体の操作は解けていました
ここまですることはなかったのかもしれません
地面に転んだ時にぶつけた肩が痛み出します
僕は先輩の操作を解除しますが
先輩はじっと目を瞑ったまま、動こうとしません
何かいって離れてもらおうとしましたが
口がまったく言うことをききません
この分だと食事にまで支障をきたしそうです
もう一度先輩の体をのっとり、僕を解放します
「こんなことするつもりはなかったんだよ」
先輩は青ざめた顔で言います、
「それに、自分でも意味の分からないこと
口走っちゃったり、私、どうしたのかなあ……」
「夏ですし」と僕は言います、「そういうこともありますよ」
ずっと楽しめるぜ
「ねえ、怪我してない? 大丈夫?」
先輩がそう聞いてきます
口をきくことのできない僕は、頷いて
「大丈夫」という意志を示そうとしましたが、
先輩は僕が声を出せないのを
ショックのせいだと思い込んだようです
泣きそうな顔で謝り続けて来ます
少し気の毒に感じましたが
説明の仕様がないし面倒なので
僕は先輩の体を硬直させると
その場を逃げ出しました
祭に向かう人の流れに逆らって
重たい体を引きずって僕は家に帰りました
アパートに着き、自室の鍵を開け中に入ると、
服も脱がずにベッドに体を投げ出します
部屋は蒸し暑く、体は痛みます
扇風機をつける元気さえありません
ひどく喉が渇いていましたが
体を起こして水を汲みに行くのさえ億劫でした
いろいろと面倒だなあ、と僕は思います
「ここがくもりぞらさんの家ですか」と青空が言います
僕は起き上がって声のした台所の方を見ました
冷蔵庫の照明に照らされた青空の顔が目に入ります
青空はハイボールの缶を勝手に取りだして
プルタブを引いてごくごく飲んでいます
缶から口を離すと、青空は「おいしいー」と笑います
僕は安心して再びベッドに横になります
「お久しぶりです、くもりぞらさん――っていう台詞は、
本来もう少し前に言うべきだったんですが、
なんだか私に気付いてないみたいだったんで、
ここぞとばかりに尾行させてもらいました」
僕は何か言おうとしますが、上手く喋れません
青空はロング缶をひとつ空にすると、
「反撃開始ー!」と言って部屋に入ってきます
顔はうっすら赤く、酔っ払っている様子です
僕に動く気力がないのを知ってのことか
あるいは単に酔っ払っているからか
青空は人の部屋を漁りはじめます
煙草のカートンを見つけると、青空は
「お酒を捨てられた仕返しです」と言って
ゴミ袋に放り込みます
CDや本も、ほとんど捨てられます
青空なりの基準が存在しているらしく
青空はときどき「これはよし」と言って
一部のものは、棚に戻されます
僕は青空に手招きして、身振り手振りで
コップに水を汲んでくるよう頼みました
青空は台所でコップに冷たい水を注ぐと
「ほーら水ですよー」と言いながらやってきて
ベッドに寝る僕の顔に1mくらい上から垂らします
僕は口を開けてどうにか水を飲みます
顔もベッドもびしょ濡れになりますが
少しでも水を飲めたことを僕は喜びます
「くもりぞらさん、今日は一段と元気ないですね」
ベッドに腰掛けた青空は、空き缶で僕の頭を
こつこつ叩きながら言います、「でも私は元気です」
僕は「後で見てろよ」という目線を送ります
「出て行ってもらいたそうな顔してますね」
青空は楽しそうに言います
「だから出て行ってあげません。あはは。
――それにしても、くもりぞらさん、
さっきから喋りませんね。動きませんし。
疲れてるんですか? なんかありました?」
僕が何も答えないのを見て、
「ん、まあいいや」と青空は言います
「とにかく、千載一遇のチャンスですね」
青空は僕の体を無理やり起こすと、
後ろに回って僕の首に右腕を巻き付けました
「前のやつの仕返しです」と青空は言います
以前触れたときの青空の首は冷たかったのですが
今日の青空の腕はあったかいです
あるいは僕の体が冷えているのかもしれません
「私、酔っ払いですから」、青空は僕の耳元で言います
「酔っ払いですから、これから変なこと言いますけど、
それは酔っ払いだからです。気にしないでください」